読書タイムイズマネー

読書で学んだこと体験したことをブログで綴ります

アドラー著『嫌われる勇気』は日本人が受け入れやすい心理学 その1

『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』が発売されて大ヒットしたのが2014年なので、もう4年以上経つのですね

 

感覚的には2016年くらいだったので驚きです

 

年を取るとともに、時間の流れが急速になり、実時間と体内時間に開きが大きくなっていきます

私の読書の持論に、「本は必要なタイミングで読めばいい」というのがあります


発売当初から気になっていて立ち読みはしたけれど、買うにいたらなかった本と立ち読みなどせずに即決で買う本があります


私にとって『嫌われる勇気』は前者の気になってはいたけれど買うに至らなかった本です。4年の時を経て、読む機会が巡ってきました


読み終わっての感想は


もっと早く読んでいればよかったなでした(笑)

 

4年前に読んでいてもフムフム程度で終わっていたのかもしれないですし、今の自分だから感じられる部分も多かったと思います


という内容を書いていて、『嫌われる勇気』の中に同じ内容が書かれていたなと

『嫌われる勇気』は人によって至る結論は様々なのかなと


自分にとってアドラー心理学は、自己責任を持って生きよ。と捉えました

 

 

決定論と目的論

決定論と目的論の違いがアドラー心理学の入口です


決定論はフロイト的な発想で、過去の出来事(トラウマ)があったから、今の自分(引きこもり)があるという考え方です


目的論は、引きこもりという状態は、今の自分(他人と関わりたくない)という目的のために作り出された状態だとされます

決定論と目的論の違いは、過去→今と今→今、というフローの違いです

 

アドラーは「トラウマを否定」します

 

トラウマ自体を否定するわけではなく、過去が今の自分を形作っていることを否定します。今の自分は過去に関係なく変えられるという発想です

アドラーが何を言いたいのかというと、過去の出来事に責任を押し付けるな。ということではないかと

目的論を説明するうえで、本の中では「善」と「悪」の話をしています


アドラー心理学の言う、「善」とは「ためになるもの」であり、悪は「ためにならないもの」です


引きこもりという状態は自分のためになるものだから、そうしている


殺人や強盗も自分のためになるからこそする

 

殺人や強盗が自分のためにならないのだとしたら、人は殺人や強盗はしないと言っています

 

つまり、殺人や強盗も自分のためという点では「善」なのです

過去という変えられないものに原因を求めてしまうと、自分を変えることは出来ませんが、今の状態は自分が求めて行っていることだとすれば、今を変えば、自分を変えることができます


アドラー心理学はいまを問う、勇気の心理学なのです


周囲は味方か敵か

アドラー心理学にとって、人が抱えている問題は「全て対人関係にある」とされます


個人は人間関係がないと成り立たないと

 

生きるということは必ず他者との関係で成り立っています


生きること=対人関係と同義にできるのかは分かりませんが、24時間どんな時でも対人関係は存在しています


寝る時も、布団で寝るとしたら、その布団を作ってくれた人がいるわけです

生活には必ず他者が存在している以上、対人関係にどう向き合うかで、生き方そのものが変わってきます


生きづらいと考えている人は、対人関係になんらかの問題を抱えている状況です


周囲の目ばかりを気にしてしまったり、他人と比べてしまったり、嫌な上司がいてトラブルに巻き込まれてしまったり…

アドラー心理学では、「周囲を味方」と考えることで、対人関係の問題が解消されるといいます

 

周囲に1人でも敵がいると思ってしまうと、そこに対立関係が生まれてしまい、トラブルが起こります。また対人関係のトラブルで行き着くのは「復讐」です


怖いですね、恐ろしいですね。。。

 

自分の周りには敵など1人もおらず、味方しかいないと思えたなら全員が味方なのでトラブルは起こりません


自分のことを敵だとみなしたり、下に見たりする人がいても、それは相手の問題であって、自分の問題ではありません


どんな嫌なことをされたとしても、それは相手の問題なのだから、気にする必要はないと、アドラーは言っています


また、周囲が味方である以上、味方のために何かをしたいと思うのが人というものです


大切なのは、「自分に何を与えてくれるかではなく、自分が何を与えられるか」だと

主観と客観の話ではなくて、アドラーは人は主観の中でしか生きていけないと説いています

 

仏教の小宇宙に近い考えかなと


地球には74億人が住んでいます

 

主観でしか物事を捉えられないとしたら、世界は74億個存在することになります


地球は1つでも、時間の流れは全員均一でもないんだろうなと


人の数だけ世界はあります

 

そして、自分が変えられるのは自分の世界だけです

 

他者の人生にまで介入してしまっても、他者の人生の責任は負えません


責任が負えないものに手を出すのは無責任です


自分が責任を持てる範囲で、責任を持った生き方をするしかないのです



昔ブルーハーツがハンマーという歌で 

48億の個人的な憂鬱、地球がその重みに耐えかねてきしんでる

と歌っていましたが、世の中にあるのは個人的な憂鬱なんだろうなと

 

また、幻冬舎の見城徹さんとサイバーエージェントの藤田晋さんの著書に、『人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない』というタイトルがありますが、まさに他人の自分に対する興味なんてこの程度なんだと思います


人目を気にして他人の人生を生きるのは、自分の人生に対して責任を取らないという姿勢です


自分の人生に責任を持つためにはどうするのか?


次回に続きます