アラン・ワッツ著「タブーの書」を「RPG」と「アンチ」を使って分かりやすく説明する
アラン・ワッツ著「タブーの書」を読みました。
こちらは『「ラットレース」から抜け出す方法』とタイトルを変えて再出版されてるようですね。
個人的には「タブーの書」の方がキャッチだと思います。
この本を読んだ理由
youtubeにアップされていたアラン・ワッツのインタビュー動画を見たのがきっかけです。
何か惹かれる部分があり、惹かれる部分がどこかを知るために「タブーの書」を読み始めました。
ガッツリ哲学書でしたね。。。。
哲学書を読むのは好きですが、自分の知識と経験をフル活用して何とか読解しなくてはならず
かなりの集中力が必要です。
哲学書が読みづらいのは、書かれている内容が万人に通じなくてはならないため
万人に共通するためにかなり高めに文章を抽象化しているからだそうです。
抽象化の逆は具体化で、個人的な体験談に通じます。
哲学書の読み方は、万人に通ずる理論を読者が個人的な体験へと落とし込むことです。
抽象化と具体化を詳しく知りたい方は「アナロジー理論」をお読みください。
ある程度理解できたと思えた読後感は、半端なく充実しています。
ただね、、、やはり内容は難しかったです。
全てを理解できたわけではありませんが、自分なりに「タブーの書」を解説していきます。
まず、タブーの書の内容をまとめ、その後に「アンチ」と「RPG」を使って説明していきます。
こんな方にオススメ
- 自分は何者か自問自答している方
- この世と自分の在り方を知りたい方
- 孤独だと感じている方
- エゴに悩んでいる方
- 自分を見失ってる方
- 難しい内容の本に挑戦したい方
- 以上の方以外にはオススメしません
見城徹さん的に言えば、内臓と内臓を擦り合わせるような読書ができました。
書かれている内容は、世界を自己を明るく照らす内容です。
孤独に押しつぶされそうになっている方はぜひお読みください。
この一冊の本で、世界と繋がれます。
最大のテーマは「エゴ」の正体
タブーの書の最大のテーマは「エゴ」の正体を知ることです。
「タブーの書」の「タブー」とは「エゴの正体」のことなのです。
私たちが普段「エゴ(自己)」と世界の境界線をどこに定めているか?
体つまり皮膚が「エゴ」と「世界」の境界だと捉えていると答える方が多いのではないでしょうか。
アラン・ワッツはここに疑問を投げかけています。
我々のエゴは肉体の内側にしか存在しないのか?
世界はたくさんの要素(エゴ)によって構成されている世界なのか?
本書の中でよく出てくる単語に「ダブルバインド」があります。
「ダブルバインド」とは
日本語訳で「二重拘束」という意味です。 二つの矛盾した命令をすることで、相手の精神にストレスがかかるコミュニケーションの状態です。
つまり「自由でなければいけない」という矛盾。
自由でいなくてはいけないと自分を強制している不自由さ。
私たちは無自覚でダブルバインドの罠に陥っています。
白と黒
天使と悪魔
善と悪
というように、私たちは対極にあるものを対立的に考えています。
しかし、天使と悪魔が戦った場合、どちらか一方が完全勝利し、どちらか一方が全滅することはあり得ません。
なぜなら、天使は悪魔という存在があってこそ成り立っているからです。
この世から悪がなくなったら対立している善という考えもなくなってしまいます。
これらは対極に位置付けられながらも、共依存の関係で成り立っているのです。
内側と外側=「エゴ」と「世界」を対極とみなす場合、こちらも共依存の関係が成り立ちます。
我々は「世界」なくしては「エゴ」を成り立たせられないし、「エゴ」なくしては「世界」は成り立たせられないのです。
善と悪の戦いがどちらか一方の完全勝利が成り立たないように(片方の概念が消えれば、もう片方の概念も変わってしまうため)
「エゴ」の相対的な立ち位置に「世界」がある以上、エゴと世界は切り離せない関係にあります。
対立関係ではなく、共依存関係。
ならば、世界にあるあらゆるものが私たちの「エゴ」を成り立たせているものであり
また、「エゴ」そのもののによって「世界」が成り立っています。
つまり「エゴ」=「世界」とも考えられるのです。
もし自分が善であろうと望むなら、悪の存在は排除すべき存在ではなく
自分の善と相対的な関係を築いてくれる大切な要素となります。
世界平和を望む声はありますが、完全な平和を目指せば目指すほど相対的に泥沼の戦争がついてくるのです。
世界がエゴによって変わるなら、エゴ(自己)は肉体の内側ではなく、世界全体であると言い換えることができるのです。
人気インフルエンサーにアンチできるメカニズム
ネットだけに限らず「無名な自分」を応援してくれる人は、ほとんどいません。
インフルエンサーになり、自分を仕事にするためには、強烈なファンを獲得する必要があります。
強烈なファンを獲得したことでアンチもまた獲得することになります。
「ファン」と「アンチ」は対極にあり、共依存関係にあるからです。
アンチが強烈であるほど、熱烈なファンが増えていきます。
アンチに悩んでいるならどうするべきか。
答えはファンを手放すことです。
自分の環境からアンチの相対関係にあるものを手放せば、もうアンチに悩む必要はなくなります。
キンコン西野さんが「アンチ」を大切にするというのは、アンチそのものがいい宣伝になるからという理由もありますが
「アンチ」が発生するということは、同時に「ファン」を発生させていることになるからです。
「ファン」も「アンチ」のどちらも、自分がポジションを得るためには必要な存在なのです。
タブーの書はRPGの世界
RPGの主人公はコントローラーを持った人間によって支配されています。
しかし、RPGの主人公は自分がコントロールされていることを知りません。
主人公は「自分の意志」で冒険に旅立ちます。
そして、世界を支配しようとする悪に立ち向かっていきます。
主人公は、コントロールされて冒険をしていますが、冒険の過程でレベルが上がり、どんどんと理想の自分に近づいていきます。
理想の自分に近づくにつれ、敵のレベルも高くなっていきます。
自分が強さを求めた故、世界の難易度がどんどんと上がっていきます。
敵に圧倒するためには膨大な時間をかけて自己を成長させなくてはいけません。
だからといって、自己を成長させ、世界平和という目的を達するまでは冒険が終わることはありませんし
敵は永遠に出続けます。
ラスボスを倒さない限り、冒険は終わりません。
ただし、RPGの主人公は自己と相対的なラスボスがいる限り、このゲームの世界に存在できますが
ラスボスを倒してしまうと、主人公はこの世界にはいられなくなります。
なぜなら主人公とラスボスは共依存にあるからです。
この本を読んでの感想
中庸という考え方があります。
ざっくりとした意味を説明すると
極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと。
なります。
対極に行かずに真ん中にいるということです。
真ん中にいるということは、相対関係にあるものが存在しないことになります。
どういうことかと言うと
「エゴ」と「世界」の関係でいえば
エゴでも世界でもない
もしくは
エゴでもあり世界でもある
ということです。
圧倒的なバランス感覚がなければ、中庸はあり得ないということです。
ほぼ仙人の領域ですね。
凡人たる自分には、対極にあるものを理解しながら、相対関係にあるものを外していく生き方をしていこうと思っています。
それが正しいかは……と正しいという考え方をすると間違いという相対関係にあるものが顔を出してきます。
うーん、タブーの書にある世界を中庸で生きるのはスーパー難易度です。
ゼルダの伝説を完全に独学でクリアするほどの無理ゲーですが、それも人生か。。。
お供にしたいBGM
今回はなし。
BGMを聞けるほどの余裕はないです。