子供が空手の試合で泣いた日ー熱中するということを学ぶ
長男(小1)が4月から空手を習い始め、先週末に初めて空手の大会に参加しました
ビギナークラスが集まった大会だということだったので、運動神経がいい長男ならいいところまで行くのではないかと思っていたのですが、いざ大会が始まってみると白帯をつけているのは長男のみ……
本当にビギナーなのは長男だけだし、初めての大会なので、初戦で負けても致し方ないかと思っていたのですが……
なんと準優勝しました
初戦で勝った時は、もしかしたら決勝まで行くのではないかと密かに期待したのですが、まさかその通りになるとは思ってもみませんでした
私は遺伝子レベルで体が弱いので、長男が無事に家内側の運動神経の遺伝子を受け継いでくれていてホッとしています(家内は高校時代バレーで東北大会に出場しています)
決勝戦が始まる前の長男は、どこか醒めているというか、試合前に眠たくて椅子に座りながら寝てしまうほど、本気ではなさそうに見えました
「僕、決勝は負けると思う」
などと、弱気な発言をしていたので、決勝まで来れただけで満足したのかなと思っていたのですが、試合が終わり、初めての負けを体験した長男は、私の元に来るなり大号泣しました
口では何といっても、やはり勝ちたかったのだろうし、負けが悔しかったんだなと
改めて大号泣した長男を思い返している内に、自分が悔しくて泣いたのっていつだったのかを考えました……
子供の頃を含めても、悔しくて泣いたという記憶がない……というよりも、自分は悔し涙を流すほどに熱中したものがあったのか……
自分の悪癖として、自分の限界を知りたくないという想いや失敗したくないという想いから、限界の一歩手前で引いてしまうというのがあります
例えば映画やマンガなんかを見て感動して泣くことはあっても、自身の体験で泣いたことってほとんどないんですよね……
勝つ喜びも負ける悔しさも両方味わえたのですから、長男が初めての大会を経て経験したものは、大きな財産です
格闘技は早ければ数十秒で勝敗が決まる厳しい世界です
長男に負けた子供たちもみんな泣いていました
勝敗がここまでハッキリと決まるというのも残酷だなと、大会を見ながら思っていたのですが、大会が終わり長男の泣く姿を見て考え方が変わりました
勝敗がハッキリと決まる世界の方が優しく、勝敗があいまいな世界の方が残酷です
そして、社会というものはとてもあいまいな残酷な世界です
勝敗を明確なルールの元で納得できるなら、次に進むことができます
社会は自分がかっているのか負けているのかも、よく分からず、しかも、勝敗のジャッジを自分でしなくてはならない世界です
日本の社会は、均一的な教育を受けて、日本全体としての教育水準は非常に高いですが、出る杭は打たれるというように、明確な勝利を手にするものを望まない傾向にあります
まだインターネットが無い時代でグローバル化が進んでいない世界だったら、競争相手が同じ日本人だったので、ライバルも同じ土俵でしたが、現在はグローバル化が進み、出る杭を推奨する国といった、違う土俵での戦いを強いられています
グローバル化が進んでからの日本社会は緩やかに落ちていっています
実は目に見えるくらいにハッキリと落ち込んでいるにも関わらず、日本はまだまだ豊かな国なので、経済第2位の時代と変わらない時代を生きているように錯覚しています
KYなどという言葉が流行り、KYではないものが叩かれるような社会
同調圧力に屈することで、赤信号の横断歩道をみんなで手を繋いで渡る社会
これだけパワハラや不祥事が出てくるのは、社会のスピードから振り落とされないように、必死で今の自分にしがみついているからではないでしょうか
現実社会のスピードに必死についていかざるを得なくなった結果、精神的に自己を振り返る余裕がなくなっているのではないでしょうか?
精神面での進化も同時に求めていかなければ、テクノロジーと精神がアンバランスになり、社会は間違った方向に進む可能性も残されています
子供が空手の試合で泣いた日
熱中することの素晴らしさと同時に、常に自分自身をジャッジする目を持つ大切さを学びました
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