読書タイムイズマネー

読書で学んだこと体験したことをブログで綴ります

我々は言葉という呪詛を使って生きている

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ただ今、高木徹著「戦争広告代理店」を読んでいます

 

 

1992年に始まったボスニア紛争において、アメリカのPR企業がどのように仕掛け、アメリカを武力行使へと動かしていったのかが書かれています

 

まだ2/3ほど読んだだけなので、結論付けるのは早計ではありますが、やはり何かの事柄を一方向からの情報だけで結論づけるのは判断を誤るなと思います

 

誤ると言っても、虚偽を信じてしまうというわけではありません

 

一方の視点にとっては真実であり、逆の視点から見ると虚偽ということになるということです

 

様々な思惑が絡んでいる場合は、事実に真実はないんですよね

 

同じような内容を是枝監督が映画「三度目の殺人」で描いていました

 

こちらは別のブログで詳しく書いておりますので、ご興味のある方はぜひお読みください→映画「三度目の殺人」の終わり方は是か非か

 

情報過多の時代で、情報に振り回されてしまう現代は特に注意が必要です

 

そのためは自分で考えることが大切です

 

このブログでも何度か紹介していますが、考えるということそのものを学ぶには哲学的思考を身に着けることが大切です

 

といっても、哲学的思考とは「当たり前に存在しているものに驚いて考える」ということです

 

私はなぜ生きているのか?

 

といったことですね

 

哲学書を読もうとしても、腰が重くなる方も多くいると思います

 

そんな方には池田晶子さんの著書がオススメです

 

文章や使われている言葉は平易で、14歳に向けた哲学書もあります

 

 

こちらは非常に分かりやすい文章で書かれています

 

考えるということそのものをより深めたい方にオススメです→池田晶子著「無敵のソクラテス」で考える日々

 

善悪の判断や考えるということももちろん重要ですが、それ以上に「ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争」を読みながら、強く思ったことは

 

言葉は呪詛である

 

ということです

 

 

言葉がなぜ呪詛なのか?

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ボスニア紛争アメリカ軍が参入した背景に言葉の呪詛があります

 

その言葉は民族浄化」と「強制収容所の2つです

 

もちろん残忍な現実を証明する写真や映像もありますが、その素材にどのような言葉をつけるかで、素材そのものの持つ意味が変わってきます

 

言葉が持つ影響力は国際的な問題や戦争に関わるものだけではありません

 

新約聖書は下記の文章から始まります

 

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 

言葉は神が人類に授けたものであり、言葉の恩恵により、人は思考・コミュニケーション・名付けて、現象を自分たちのものにします

 

言葉は物心ついた時は、すでに使える当たり前にあるツールです

 

つまり、人類そのものが生まれながらにして呪詛を身に着けているということです

 

言葉はトラウマを抱えるほどの傷を心に負わせます

 

相手が無自覚に発した一言で、他人の人生が変えてしまいます

 

言葉は誰もが扱えるツールでありながら、強力な呪詛にもなり得ているのです

 

現代はスマホの普及により、人と簡単につながる時代です

 

人と人とが繋がるということは、その場に会話(文字でのやり取りも含む)が生まれます

 

言葉の拡散や影響力はSNSをやっている人なら分かると思います

 

インターネットに溢れる誹謗中傷は、匿名性の問題ではなく、言葉の持つ呪詛的な力を甘くみてるからではないかと思います

 

言葉の呪詛の怖いところは、独り言でも発した時点で呪詛になり得るということと、相手にかけた呪いと同等のものが言葉を発した本人にも返ってくるところです

 

言葉に乗せられる想い

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言葉がなぜ呪詛という強力な力になるのか?

 

それは、言葉には人の想いが乗るからです

 

「ありがとう」

 

という言葉は、本来なら感謝の想いが乗ったプラスの言葉ですが、「ありがとう」といわれて不快な気持ちになることもあります

 

それは、発した本人が全く感謝の気持ちがなく、憎悪や嫉妬といったマイナスの感情を言葉に乗せているからです

 

言葉そのものにも力があることは確かです

 

昔の人は言霊といって、言葉そのものを大事にしていました

 

現代を生きている人で言霊を大切にしている人は少数なのかもしれません

 

これは現代の人たちがあまりにも目の前にあるものだけを、現実として認識しているからではないでしょうか

 

言葉をコミュニケーションツールだという1つの視点のみで捉えていたり、ある種の物質的な視点で捉えてしまうと、想いが乗せられた言葉の呪詛を、軽視してしまうのかもしれません

 

言葉自体は呪詛ではない 

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逆説的に聞こえるかもしれませんが、言葉自体が呪詛になりうる訳ではありません

 

言葉に乗せられる想いが強力な呪詛にしているのです

 

この先、AIとのコミュニケーションが盛んになる時代が来ると思います

 

人とAIが発する言葉の最大の違いは、想いがあるかないかではないです

 

AIによって発せられる言葉には、想いが乗らない分、言葉そのものの力のみになります

 

AIの使用する言葉はまさにツールといえるのかもしれませんが、人間が使用する言葉から想いを完全に無くすことはできません

 

想いには意図や狙いや感情も含まれます

 

言葉が呪詛だといっても、全ての言葉がマイナスの状態になるわけではありません

 

想いには「プラスの想い」と「マイナスの想い」があります

 

プラスの想いが乗せられた言葉は、呪詛といっても白魔法になります

 

マイナスの想いを乗せるから言葉は、黒魔法になってしまうのです

 

言葉の持つ力は、こちらの状況は関係ありません

 

家庭でも職場でも遊びでも、どんな状況であっても同じ力を持っています

 

そして、どんな状況であっても言葉を発した時点で、その言葉にかかった呪いは自分に返ってきます

 

それは見た目にも如実に現れます

 

普段から白魔法の言葉を発している人と黒魔法の言葉を発している人では、見にまとっている雰囲気や外見そのものも変わってきます

 

時折、東京では何かを罵倒しながら歩いている人がいます

 

そういう人の顔を見ていると、何も受け入れる要素がなく、自身の怒りでいっぱいになっていて近寄りがたい雰囲気があります

 

本音を隠して建前ばかりを口にしていても、本音の想いが言葉に乗ってしまうので、どこか嘘くさく軽く感じられます

 

建前と本音のない子供たちの言葉は、言葉通りの想いが込められているので、非常に分かりやすく伝わってきますし、本音を口にしている人たちの言葉が強いのは、想いと言葉が一致しているからです

 

コミュニケーション術を学ぶことは社会を生きていくうえで大切かもしれません

 

ただ、上辺だけの技術を学ぶだけじゃなく、言葉の力を意識し、言葉に乗せる自分の想いと向き合うことも大切ではないでしょうか

 

初めに、言葉があったなら、人類にとって言葉を使うということが呪いなのかもしれません

 

その言葉を乗り越えた時に、この世界を超えた何かが生まれるのかもしれませんね

 

そのためにも、言葉とは何か?言葉に乗せる想いについてかんがえてみるのはいかがでしょうか