相川圭子著「思った以上の人生は、すぐそこで待っている」を読んで
相川圭子著「思った以上の人生は、すぐそこで待っている」を読みました
相川圭子さんという方は、ヒマラヤ秘教の最高位にあたるシッダーマスターで、現在会うことができるシッダーマスターは相川さんともう1人の2人だけだそうです
ヒマラヤ秘教の歴史は5千年あり、キリストやブッダよりも歴史の古いものです
ブッダはヒマラヤ秘教を参考にしたとも言われています
この本に書かれている内容を要約すれば、人は心に振り回されて生きている。心に振り回されないためには魂=内なる神の存在を知り、本当の自分になることが大切
そして、本当の自分になることが生きる目的だと言っています
神様の存在をどうするのか?
日本社会でタブーの話題に宗教があると思います
オウム真理教が宗教=怪しいものという等式を決定的にしました
神様と宗教は切り離せないものでありますが、神様=宗教ではありません
神様の話になると急に私は無宗教だからとかそういうのを信じていないからと、シャッターを完全に閉じる人が多くいます
これは実にもったいないことです
神様がいようといまいと、宗教という定義がどうであろうと、学べることは多くありますし、自分にはない視点を手にすることができます
科学的に証明されたといいますが、なぜ科学は信じる信じないという判断にはならないのか
なぜそれほどまでに人が作り出した科学を信用しているのか
凄く不思議だなと思います
元をただせば、科学も宗教も哲学も全て神の存在を証明するために始まったものです
つまり、科学も宗教も哲学もひとつのもの=神を別の視点から見ているにすぎません
その中で、科学の進歩がもっとも分りやすく、実生活に即しているものであるから科学優位になっています
世の中が便利になったことは確かですが、果たして幸せになっているのか?豊かに暮らせるようになっているのか?
科学が進歩したことは素晴らしいことですが、科学だけが真実を証明してくれるというのは、あまりにも視野が狭いのではないかと思います
神様の存在を信じようが信じまいが、そういう視点もあるということを受け入れることは大切です
多角的視点を持つということ
この本はヒマラヤ秘教を教わった方が書かれているので、ヒマラヤ秘教からの視点になります
神とどのように繋がるか、カルマとは何か?どのようにして生きていけばいいかetc
もしかしたら、この本を読んで宗教の勧誘かよと思われる人もいるかもしれません
その場合は、この本に書かれている胡散臭いと感じられる部分は、そういうものなのねと受け流せばいいのです
宗教を胡散臭いという方は(ちなみに自分は特定の宗教を信奉してはいません)、宗教という言葉そのものに胡散臭さを感じています
特定の宗教を信奉している人にあって話を聞くのは、勧誘されたりして怖いというのは分ります
でも、本を読んで書かれている内容をどう受け取るのかは、読み手の自由であり、本が勧誘してくることはありません
のめりこんで読む必要もないし、本に書かれていることを全て信じる必要もありません
ただ、そういう視点もあるのかと参考にすればいいのです
たとえば、この世界を神様のような存在が創ったという話があったとして、これって科学的に証明されることは今のところ在り得ないですよね
じゃあ、科学では証明できないから、神様は存在していないというのは、やや暴力的すぎるかなと思います
哲学で、「私を私だと思っている私とは誰か?」と考えた場合に、ヒマラヤ秘教での考え方は、人間は神が作ったもので、人の中には神から授かった神性がある
心が生み出している欲望や想いのクセのようなものから開放されないかぎり、本当の自分=神性にはなれない
という仮説を実証するために、日々修行をしているのです
人は自分の五感でしか世界に触れることはできず、自分の頭や心や魂を通じる以外に、世界を考えることはできません
自分の思考や感情のみ頼りにするのは、非常に狭い世界でしか生きられず、すごく勿体ないなと思います
どこに金言があるのかは分らない
宗教やスピリチュアルの話は信じないから、聞く必要はないと思っている方にとっては、聞く必要はないことです
何か生きる指針が欲しいから、宗教やスピリチュアルを信じるという方にとって、聞く必要の話ではあるかもしれませんが、依存関係になる可能性が高く、騙される可能性もまた高くなるので注意が必要です
生きるために必要なことなんて分らないんです
なぜなら、いま生きている最中だからです
ゴールも分らないですし、何をすればいいのかなんて分からない
大切なことは何かも分らないですし、逆に不必要なものもなにか分らない
自分が大切だと思っていたことは、実は子供の頃に親から刷り込まれた親の考え方かもしれません
自分は体と心でできていると思っている方は、魂という存在が分らないし、心に振り回されているというのもよく分りません
ただ、分らないと不安だから、分っている気になっていたいのです
自分の構築した世界を強固にするために、分らないものは存在しないものにしたいのかもしれません
分らないから信じないではなく、分らないけどそういうこともあるかもねと受け入れてみる
全てを受け入れて、自分なりに実践してみて、いらなければ手放せばいいのです
受け入れるか受け入れないかの指針になるのはなにか?
それは自分しかいないのです
誰かからアドバイスをされて、受け入れるか受け入れないかは自分が決めることです
そのためにも自分を知るということをしていかなければなりません
自分を知らなければ、生きる指針も持てません
ヒマラヤ秘教の教えをあえて、仮説と書きました
誰が言っていることも、どの本に書かれていることも、全て仮説に過ぎません
人間そのものが不完全である以上、科学も宗教も哲学も全て不完全だからです
不完全なものが立証したものはやはり不完全です
全てが仮説なのだから、受け入れる受け入れないという根拠も仮説に過ぎません
自分の考えも仮説であり、死ぬまで仮説と立証を繰り返して生きていくのです
その先に何が待っているのか?
それは、その先に行ってみないと分らないので、分りません
ただ、行ってみるためには事前に準備が必要ではないでしょうか
全てが仮説の世界である以上、自分の思い込みも仮説に過ぎません
恐れや不安もまた現実ではないのです
全てが仮説だという仮説を立証するために本を読み、行動する
そうして自分自身を深堀りしていくことが、どうやら間違いにくい選択をするためには必要なようですね