吉本隆明著「日本語のゆくえ」を読んで自己について学ぶ
吉本隆明著「日本語のゆくえ」を読みました
吉本隆明さんは詩人・評論家の方です
代表作に『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』などがあり、また詩集『転位のための十篇』は幻冬舎の見城徹さんといった著名人に多大な影響を与えている作品です
小説家「よしもとばなな」さんのお父さんとしても有名です
吉本隆明さんの作品はこれまでも何冊か読んでいて、多角的視点と圧倒的な知識量、思考の深さが驚くほどで、自分の世界がいかに狭く、独断的かを教えられます
正直言えば、「日本語のゆくえ」に書かれている内容のどれだけを理解したかといわれれば、3割理解できていれば御の字といったところです
吉本さんの感覚が突出しているため、日本語に関しての見解が自分の感覚を大幅に飛び越えているため、吉本さんが問題と思っている部分がそもそもよく分からないという状況になります
本を読むうえで、書かれている内容が分からないからすぐに読むのを止めるというのは勿体ないかなと思っています
分からないなりに読み進めていく内に、突如、自分の視点の変化を感じ取れたり、見えていなかった世界が開けるということがあります
今年読んだ本の中で、2/3くらいまでは書かれている内容があまり自分の中に入ってこなかったのに、1/3で一気に自分の中に入ってきたという本もあります
それはアラン・ワッツ著「タブーの書」はまさに一気に世界が入ってくるという感覚を味わいました
アラン・ワッツ著「タブーの書」を「RPG」と「アンチ」を使って分かりやすく説明する
日本語のゆくえでいえば、全てを読み終えてみても3割くらい分かったかなという感じです
それでも、これまで自分の世界には見えていなかったものが分かるというのは、自分を知るうえで重要です
芸術価値は自己表出にある
吉本さんがこの本で芸術価値というのは自己表出の事だと言っていました。指示表出は芸術価値に間接的に関わってくると、自己表出と指示表出は縦と横の糸だというようなことを言っています
正直、あっ!そういうことかというほど理解は出来なかったです……
芸術価値は自己表出によるものという言葉を読み、以前に大江健三郎さんが「小説は自分はここにいるという叫び」というようなことを言っていたことを思い出しました
人生の勝算の著者「前田裕二」さんが、自分は面接では無敵だったと、なぜなら自己内省を徹底的にやったため、面接官の100倍も1000倍も自分で自分自身の事を知っているからと言っていました
さらに、自分が見ている世界は内側の世界であり、人は自分が見たいようにしか世界を見られない
それぞれを重ね合わせ手考えてみると
芸術価値に至るほどの表現は、自分の内側からしか出てこない、ということではないかと思います
nendoの代表「佐藤オオキ」さんは、自分から表現するのが苦手で、クライアントさんからお題を頂いて、それに対してデザインで解決すると言っていました
一見すると、芸術価値と商業価値は違うところにあると思われますが、佐藤オオキさんは、日常の生活の中で自分のフィルターに引っかかったものをアイデアにするらしいです
つまり、佐藤オオキさんは対象は自分で決められないけれど、デザインのアイデアは自分の日々の日常の中にあるということです
それって、自己表出ということと完全にイコールではないにしろ、同じベクトルの中にある表現ではないでしょうか
また、吉本さんは著書の中で、詩人や小説家が表現に対してどれだけ考えているか、どれだけのアイデアを出して、表現方法を悩み抜いているかにも触れています
夏目漱石さんは、主題と芸術表現がズレていると指摘していました
人は想像以上に自分のことは分かっていません
ヒマラヤ秘教では、本当の自分になることを悟りとしています
【ヒマラヤ秘教の最高位を日本で初めて獲得した女性の著書】
相川圭子著「思った以上の人生は、すぐそこで待っている」を読んで
自己表現というのは、芸術だけに限らず、宗教でも哲学でも科学でも同じです
宗教と科学は神の存在を証明するために始まったものです
そして5000年続くヒマラヤ秘教では、人の最終段階は神=本当の自分になることだと言っています
実は思考停止の方が生き易かったりする
ここまで自己表現の大切さについて書いてきましたが、逆説的に生きるという目的がはっきりしないなら、思考停止し他者の考えに依存する方が楽ですし、現代社会を生きている多くの人は、他者の考えに大きく依存して生きています
自分で考えて行動するのって、辛くないですか?
社会や他者が轢いたレールのうえを走っていれば、考える必要はないですし、他者が安全を保障してくれるようなことを言ってくれます
当たり前とか普通という言葉で制約していれば、それ以上のことをしなくて済みます
常識に縛られていれば、それ以上の判断を自身でする必要はありません
生きていることに意味を求めなければいいのです
そういう生き方に満足している方は、自己内省をしない方がいいです
自己内省を繰り返し、自ら知識に手を伸ばし、実際に行動していくというのは、常識から外れる行為です
なぜなら、個が主体になるからです
個が主体になるということは、歩む道から自分で決めなくてはいけませんし、自分の人生に責任を持たなくてはいけなくなります
大多数が流れていく道を、時には逆走しなくてはいけなくなりますし、誰もいない道すらない場所を、自ら開拓し、自ら道を作っていかなくてはいけなくなります
もちろん、誰もいないところにいる方が成功した場合の報酬は破格になります
ただし、失敗のリスクもあります
失敗しないように生きるためにどうすればいいかというと、答えは簡単で成功の幅を極限まで減らすことです
お金を例に出せば、2倍のオッズに100円を賭けた場合、成功すれば200円得られ、失敗しても100円の損で済みます
10000倍のオッズに1億円を賭けた場合、成功すれば1兆円を得られ、失敗すれば1億円損をします
賭けの場合は、結果は他者に委ねられますが、これを人生に置き換えれば、賭けをするのも自分で、賭けの対象者も自分だということになります
失敗を怖ろしいと思うのは、賭けをしている自分と賭けの対象者としての自分の両方の自分が失敗をすることになるからです
それも、2人の自分がいるということを無自覚なままで
2人の自分がいて、2人の視点から世界を見つめられて、賭けに出る時に、プレイヤーとしてのもう1人の自分をしっかりと把握していれば、賭けに勝つ可能性も高くなります
また、このプレイヤーである自分がダメでも、別のプレイヤーの自分を生み出せばいいと考えられるなら、失敗に対する恐怖心も薄らぎます
吉本さんは芸術価値という面から自己表出という言葉を使っていますが、人生全般に使える言葉だと思います
20代・30代の詩人は無
吉本さんは著書の中で、20代・30代の詩人の作品を30冊くらいみて、今の若手の詩人は無であるといっていて、たいそう驚いておられました
神話は歌謡からきているが、若手の詩人からは神話は生まれない
良いとか悪いとかではなく、今の詩人は無だそうです
この著書は2008年に書かれたものです
ちょうどスマホが出始めたころですね
正直、この無だという感覚は、理解することはできませんでした
ただ、無という言葉をなども使っていて、ちょっとヤバいなという感覚になっているということが伺えました
日本の詩というものは、自然感覚が無いと絶対に成立しないと言っています
都会では自然感覚が身につかなくて、その代わりに何を持ってくるかを考えなくてはいけないけれど、それはちょっと大変なことだと言っています
田舎育ちで自然にあふれた生活が自分にはあるので、自然という感覚は意識するとこういう感じだなというんはあります
息子たちは自然の中で育っていないので、自然という感覚をもしかしたらフワッと浮かべられないのかもしれないなと
それって、とても乾いたというか、無生命的というか、それはやっぱり良くないなと思います
自然に触れることは、生命に触れることと同義です
人間の叡智をはるかに超えた存在が自然です
吉本隆明著「日本語のゆくえ」を読みながら、最後は子供たちにもっと自然に触れさせる体験をさせて上げようというものになりました
「日本語のゆくえ」がどこかは分かりませんが、少なくとも言語にも自然が宿っていることを忘れると迷子になるんだろうなということは、変わらないんだろうなと思いました