LGBTの方たちが差別されるという不思議
LGBTは生産性がないという水田議員の発言で話題になりました
この発言に関しては論外なので、特に言及する気にはならないですが、そもそもLGBTの方たちが差別されるという意味がよく分かりません
LGBTとは
Lesbian(レズビアン、女性同性愛者)、Gay(ゲイ、男性同性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル、両性愛者)、Transgender(トランスジェンダー、性別越境者)の頭文字をとった単語
セクシャルマイノリティー(性的少数者)の略ですが、この方たちを差別する人たちというのは、セクシャルマジョリティー(性的多数者)の人たち、いわゆる異性にのみを性的対象者とする人たちなんでしょうね
元々、セクシャルマイノリティーの方たちに対して差別的な視点で持っていないので、そもそも差別されることの意味がよく分かっていません
このところ池田晶子さんの本を読んでいて、哲学的な思考に触れている影響もあり、さらにLGBTの方たちが差別されることが、不思議で仕方ないなと思うようになりました
【池田晶子さんの本はこちらから】
そもそも差別とは何か?
LGBTに限らず、人種や出自といったものでも差別があります
差別ということは、差をつけて別けるということなので、何かしらの枠組みで人を判別するということです
世の中には多くの枠組みが存在しています
人種、国家、性別、性的対象etc
人種間や国家間での争いが戦争へと向かわせます
セクハラやパワハラといった類も枠組みによって発生するものです
差別が行われるのは、枠組みがあるからです
枠組みが無ければ、差をつけることも別けることも出来ません
池田晶子さんは、この枠組みは実際にはなく頭の中での思い込みに過ぎないと言います
国家なんて言うものを目の前に見せろと言われても見せられませんし、人種や性別も個人を特定するものではありませn
誰かが作った枠組みを、考えることなく、そういうものがあると思い込んでいるだけです
差別とは、ありもしない枠組み、または誰かが決めた枠組みで、差をつけて別けていることです
つまり、差別とはそうあると思っている枠組みを思考停止で受け入れて、自分の都合よく解釈している状態です
枠組みで規定される自分とは?
哲学の根源的な命題に
「私」だと思っている「私」は誰か?
というものがあります
私は私だと思っている「私」とは何者か
自分が抱く感情や思考はどこから生まれ出るものなのか?
脳が考えていると答える人がいるかもしれませんが、脳は体の機能の一部であり内蔵です
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心臓や肺を、意図的に止めたり動かしたりできないように、脳もまた意図的に止めたり動かしたりできません
脳という機能を使って、考えるという作業をしているのかもしれませんが、では、脳を使っている存在は誰なのか?
脳が感情や思考しているなら、脳を使うことではなく、脳が勝手に感情や思考しているということになります
では、脳を使っている存在である「私」とは誰なのか?
自己とは何か?という問いを考えれば考えるほど、私が今ここに在るということに驚かされます
人は誰もが生きていると実感し、感情があり、思考している状態を当たり前だと思っています
私とは何者か?ということを深く考えないで、私は私だと思っている人ほど、自分の存在を枠組みに求めようとするのかもしれません
自分は、日本人で男で、一般企業に勤め、普通の性的対象を持った、マジョリティーな人間
枠組みでいくら自分を規定していっても、絶対的対象である自分には辿り着けません
枠組みを増やして、自分を具体化していったところで、私だと思っている「私」の存在にたどり着けません
差別をこの世から無くすためには
差別は枠組みで差をつけて別ける行為です
差別をこの世から無くすためには、枠組みを取っ払ってしまうのが最も早いのではないでしょうか?
枠組みを取っ払うのは誰か?
枠組みが自分の思い込みである以上、枠組みを取っ払うことができるのは、自分自身しかありません
自分は確かに、日本人で男で、一般企業に勤めて、通常の性的対象を持っているけれど、それはただの枠組みであって、本質的な自分とは関係ない
自分とは誰か?
おそらくこの答えにたどり着ける人はいないと思います
自分が自分を誰かも分かっていないのに、なぜ人を枠組みのみで差別することができるのでしょうか?
差別はただの思い込みに過ぎません
自分の思い込みによって人を傷つける行為は善い行いといえるでしょうか?
人は悪い行いだと思っていることはしないと言います
ということは、差別する人たちというのは、差別を善い行いだと思ってしていることになります
自分がマジョリティー側の立場にいるということ
その枠組みに安心しているということは、自分は自分の意志で生きていないということを宣言しているようなものです
もしマジョリティーの立場でいたいなら、小さな枠組みを作らずに、全人類や全生命というマジョリティーという立場であると考えたらいいのではないでしょうか?
自分は人間である
という枠組みなら、もはや誰も差別することなくいられます
全生命の共通点は「在る」ということです
「在る」ということに国家、人種、性別、性的対象者といった枠組みが、本当に必要なのか、考えてみることは大切ではないでしょうか
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