池田晶子著「無敵のソクラテス」で考える日々
池田晶子著「無敵のソクラテス」を読みました
タイトルにソクラテスの名前があるくらいなので、内容は哲学です
作者が「哲学」という言葉が嫌いなようなので「考える」ための本と言い換えます
内容は、現在の日本を舞台に、ソクラテスが様々な有識者や妻と現代の問題について語り合うという、対話篇になっています
ソクラテスは書き物を残しませんでした
現在でソクラテスが言ったとされる書物は、弟子のプラトンが書いたものです
この本の構造上の面白さは、ソクラテスやプラトン、妻のクサンチッペが登場し、自分たちの意見を述べるところにあります
本の中で語っている、ソクラテスやプラトン、クサンチッペの意見は誰の意見なんでしょうか?
彼らを媒体に池田晶子さんが書いたものなのか?
本の中で、池田さん本人がソクラテスと語る回もあります
この場合に池田さん本人は、本人の考えだとした場合、対談しているソクラテスは誰の考えの元、語られているのでしょうか?
破綻なく考えれば、ソクラテスの考えを学んだ著者が、ソクラテスならこう答えるだろうという予測のもとに書かれた本ということになります
その通りの本なのですが、ただそれだけではないのが「考える」ということです
ソクラテスから哲学者と呼ばれる人たちが考え続けてきたこと
「私とは?」と「私」を考えている「私」とは「誰」なのかという問いです
池田さんが書いたソクラテスという人物が語っている内容は、池田さん本人のものなのか、ソクラテスのものなのか、ソクラテスを想っている池田さんを想っている「池田さん」とは?
無知の知とは何か?
無知の知とは、「分からないことを分かっている」ということです
上記に書いた、私を考えている私は誰?という問いに対して、ソクラテスは分からないと答えています
分からないから考えると
私とは誰ですか?という問いに対して、誰でも答えを持っているのではないかと思います
自己紹介してと言われて、私を自己紹介しようとしている「私」が誰なのか分かりません
と答えたら、コイツ危ないやつだなと思われてしまいます
「考える」とは真理を追究することですが、社会は真理を求める行動とは真逆の行動をとる場合が多いのです
私とは何者かを規定するのが社会です
社会的な何者かを「私」だと考えてしまうと、勤め先や学歴、年収や役職、住んでいる地名などが「私」を形成するものだと考えてしまいます
それでは、社会という基盤が無ければ「私」は存在しなくなります
私を私だと考えている私は、分からない存在です
その分からない存在をあえて定義したものが「イデア」です
汝、自身を知れ
イデアをインターネットで調てみると下記のように書かれていました
〔見られたもの,知られたもの,姿,形の意〕
分かるようで、分からないですね
イデアをスピリチュアルな言い回しに変えれば、ハイアーセルフとも言い換えらえるのではないかと思います
ハイアーセルフとは高次元の自分であり、ハイアーセルフの意識が根源となり、思考や感情を生み出しているとも言われています
ハイアーセルフとは何か?
ハイアーセルフになったことがないので、分かりません
自分が自分として生きているということに驚くことが、「考える」第一歩だとも書かれています
自分の感情や思考が生み出されている根源的なものは何だか分かりませんが、脳やDNAやゲノムといったものが根源的なものではないことは確かです
私たちは自分の意志で生きていて、行動していると思っていますが、自分の感情や思考の根源が分からない以上、私たち自身も「大いなる何か」によって生かされている可能性もあります
自分というものは多くのモノの影響を受けて存在しています
他者の思考であったり、社会的な意思であったり、国家であったり……
自分とは何かを分かったつもりでいる人ほど、他者の人生を生きている可能性が高く、私とは何者か?を考えている人ほど、自分の人生を生きられるのです
「大いなる何か」がどんな存在かは分からないけれど、「大いなる何か」である以上、一個人では計り知れないものである
だからこそ、素直に従って生きてみよう
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人には自由意志が与えらえれていると言います
「大いなる何か」の存在と矛盾しているように感じますが、「大いなる存在」があると仮定してい生きることと、「大いなる存在」などないと仮定して生きること
人は人生を選択することができます
池田さんは別の本で、この曖昧な領域を「魂」とすると、上手く考えれると書いています
「哲学」と呼ばれているものは、万物に共通する真理を考えるものです
真理である以上、誰に対しても当てはまるものであり、真理は当たり前に日常にあるもので、難しいものではありません
……難しくないものであるからこそ、難しいのでもありますが……
万物に共通しているものである以上、真理はシンプルなものであるはずです
万物を最大限に抽象化してみると
「在る」
ということになるのではないかと
「在る」ということが万物の共通項だとした場合、万物を「在る」という状態にしたのは何者か?という問いが出てきます
これが「大いなる何か」なのかもしれませんし、「イデア」なのかもしれません
このことを考えても分からないです、分からないことは分からないんです
万物の共通している最大値の「在る」という状態を存在せしめた何者かが分からない
私が何者か?なんて結局分からないということです
ソクラテスは「汝 自身を知れ」と言いましたが、本人は自身が何かなんて分かっていません
分からないことが分かっているだけなのです
「汝 自身を知れ」は自分が何者かを把握せよという意味ではなく、自身を知ることをし続けよ=考え続けよという意味なのかもしれません
現代社会における哲学の必要性とは?
現代は情報化社会と呼ばれ、インターネットが発展して以降、情報を簡単に手に入るようになりました
ネットの発展による功罪として、「考える人」と「考えない人」の差がより大きくなったことが上げられます
調べ物の答えが簡単に得られるようになったという思い込みにより、即物的な情報を求める動きが大きくなっているような気がします
時代の流れが速くなり「行動力」が大切なものであると言われています
考えて結論を出す前にまずは実行する
「行動力」があるというのは問題ではありませんし、「行動力」と「考える」は反するものでもありません
行動する前に考えてしまい、行動できなくなるのが最も無意味です
行動しながら考える、もしくは考え切って行動に移したならやり切るまでやめないこと
主体が行動なら、「考えながら行動する」という方法が、現代に合っています
SNSの浸透により、企業に属さなくても個人で成功するルートができてきました
働き方は多様であった方が、可能性が広がるので素晴らしいことだと思います
ただ、自分が何者であるかということに主眼が置かれすぎているような気がします
社会的な自由を求めながら、精神の自由も求める
自分が何者であるようにしながらも、やはり自分は何者なのだろうか?
自分を自分だと思っている自分は誰なのか?
この問いを考え続けること
過渡期な時代だからこそ、「無知の知」について考えて2500年も続いた人類史の過渡期も迎えているのかもしれません
「無知の知」
「汝 自身を知れ」
その先にある「自由」とはどんな「自由」なのでしょうか?
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