読書タイムイズマネー

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「自由になりたい方へ」自由を知るために必要な視点とは?

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齋藤孝著「論語」を読みました

 

この本を読む目的は、齋藤孝さんの「人はなぜ学ばなければならないか」を読んで、論語が気になったからです

 

より深く「論語」を学ぼうかと悩んでいた時に、齋藤孝さんによる「論語」を現代風にアレンジした本を見つけたので、ちょうどいい機会だなと

 

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論語とは何か?

 

論語を説いた孔子は紀元前552年前なので約2500年前の人ですが、人間の社会というか生き方は大きくは変わってないのだなと読んでいて思いました

 

孔子はどなたかに仕えて、良い国を作りたかった人です

 

仙人のような世捨て人ではなく、社会のど真ん中に生きていたかった人ですが、ただ表立って何かをしたというよりも、生き方を弟子たちに教えて生きていました

 

論語とは、正しく生きるためにはどのような心持ちで生きていくべきかが書かれた本です

 

いわゆる処世術というやつですね

 

また、孔子論語は自分の意見ではなく先達たちの知恵をそのまま借りてきたもので、自分の意見はないと言っています

 

現代を生きる身からすると2500年前の孔子よりも、さらに前にいる偉人達というのはもはや想像がつかないのですが、社会において現在とさほど変わらない悩みに、人類は悩まされていたんだなと

 

テクノロジーの進歩により、現代は楽に生きられる世の中になったように見えますが、テクノロジーの進歩をそのまま人類の進歩だと思うのは疑問です

 

なぜなら2500年前と人間そのものは大して変わっていないからです

 

人類が進歩したなら、人間性の向上を成していなければならりません

 

論語」に書かれているような内容は、すでに人間の基礎となっていて学ぶというよりも、当たり前の事実となっていなくてはなりません

 

……これって言葉のトリックでもあります

 

孔子は偉人であり、2500年前の人類の基本ではないからです

 

比べるなら2500年前の一般庶民と比べなければ正確ではありません

 

ただ、孔子の教えは江戸時代は寺子屋で子供たちが暗唱できたほどに、日本人の生活には浸透していたわけなので、江戸時代に比べて、現代は本当に進歩しているのか?ということは意識するのも面白いですね

 

現代が常に時代の最先端である以上、我々より先の未来を生きている人はいません

 

我々が時代の最先端を生きていることは事実ですが、果たして人間として最も進歩しているのかは盲目的に思い込まない方がいいかなと思います

 

情報過多の現代を生きる我々の方が情報は多く所有していますが、時間の流れが速すぎて思索する時間は持てていません

 

昔の方も生きることに精一杯になっているかもしれませんが、情報が少ない分、思索する時間は多くあるはずですし、また自分たちが分からないことは分からないと思っている方が多います

 

ググることは必要だけれど…

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ググる」ことの罪は、情報がすぐに手に入ることで分かったつもりになってしまうことです

 

ソクラテスの「無知の知」は「分かっていないことを分かっている」ということです

 

現代人は「ググる」ことによって「分かっていないことを分かった気に」なってしまっています

 

本来の「考える」ということは、それほど短期間にできるものではなく、深く深く内省することです

 

論語」を学び、孔子の教えを実行することも非常に大切ですが、実践することだけでなく、「考える」ということも、情報社会の現在では必要なのかもしれません

 

時代の先駆者は「行動しながら考える」という動きをしています

 

いま話題の幻冬舎の箕輪さんが編集しているヒット本のほとんどは生き方が書かれたものです

 

堀江貴文氏の「多動力」、前田裕二氏の「人生の勝算」、キンコン西野氏の「革命のファンファーレ」etc

 

ある意味でその根源的な考えが孔子の「論語」なのかもしれません

 

時代の最先端を追い求めることも必要ですが、古典や原典にも時代とは無関係な本質的な内容が含まれています

 

そして、最先端と古典の両方を抑えることで、歴史の始まりと最新を知ることができます

 

両方の視点を持つことは、とても重要なことなのではないかと思います

 

 

池田晶子著「考える日々」を読みました

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論語は人生をどう生きるのが正しいのかという処世術だと書きました

 

孔子の教えは現代にフィットしていますし、実践的な内容が書かれています

 

池田晶子さんの著書は、孔子や時代の先駆者とは全く違う視点で書かれた本です

 

池田氏は哲学者であり、哲学とは「考える」ことであると説きます

 

自分はこれまで古典を「古典」というジャンルでまとめてしまっていました

 

孔子ソクラテスも同じジャンルだと思っていましたが、齋藤孝著「論語」と池田晶子著「考える日々」を読んで、間違いだと気づきました

 

 

哲学は万物共有の理

 

論語は「処世術」であり、哲学は「物事の本質」を見極めるものです

 

孔子は「どのように生きることが正しいか」を説いていますが、ソクラテスを祖にする哲学は「生きることとはどういうことか」を説いています

 

この世の中を生きる上で、どちらかが必要ではなく、どちらが上ということもなく、どちらの視点も必要です

 

本質を問わないで、生き方ばかりを追求していくと、芯がブレるといいますか、信念なき生き方になってしまいます

 

しかし、信念ばかりを追い求めていると、世の中と接触することなく何事も成せなくなります

 

落合陽一氏や見城徹氏の本や話を聞いていると、時代を切り開いている人たちは確固たる信念があり、その信念を本質に生きています

 

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今年に入り、本を65冊ほど読み、多くの本にできたのが「抽象化」という言葉です

 

多分、今の私にとって「抽象化」ということが、とても重要なんだと思っていましたが、「考える日々」を読んで様々な考えが一気にカチッとハマる感じがしました

 

この世を自由に生きるために

 

「考える日々」の中で、自由という言葉がよく出てきます

 

誰もが不自由よりも自由でありたいと思っているはずですが、実際に自分は自由だと思っている人は少ないのではないかと思います

 

自由を理解するためには、この世には内なる世界と外側の世界があることを理解する必要があります

 

内なる世界とは、自己の内側に存在する世界です。思考や想像する世界ですね

 

外側の世界とは、自分の外側にある世界です。この世にある自分以外のものです

 

ただし、他人の視線や他人の思考で、世界を見ることはできません

 

あくまでも、自分の目で見て感じたものしか世界だと認識できないのです

 

つまり、内側の世界=外側の世界とも言えます

 

人は自分が見たいものを見て、感じたいように感じるのです

 

10人いたら、10人の世界が存在していることになるのです

 

極論でいえば、人は他人の世界を共有することは出来ないので孤独です

 

不自由を感じている人は、内なる世界=個人、外側の世界=個人以外の世界という図式で世の中を見ているのではないでしょうか?

 

自分がコントロールできるのは自分だけ

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他者の視線が気になり、世界の動向を気にして、一般的な考えに流されてしまう

 

内なる世界が個人だけなら、自分以外の世界に流されてしまうのも致し方ありません

 

しかし、内なる世界を個人以上に広げることが可能だとしたらどうでしょう?

 

ここで必要なのが「抽象化」です

 

抽象化とは俯瞰的な視野というか、より大きなグループで見ることです

 

Aさん家のポチ<ポメラニアン<犬<生命

 

Aさん家のポチよりポメラニアンの方が抽象度が高いです

 

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このようにして個人を抽象化し、個人<家族<地域<国<世界と広げていくことで、世界を自分事として見ることができるのです

 

自分の視野が個人よりも世界的な視野まで広げられたら、世界が自分であるのです

 

世界が自分となれば、個人的な視点よりも自由度が高まると思いませんか?

 

……もちろん、そこまで視野を広げることは非常に難しいことです

 

内なる世界は=自分なので、世界を自分事として捉えられなければなりません

 

哲学者の話が難しいのは、万物に共有する言語で、万物に共有できることを話しているからです

 

抽象度が高いということは、それだけ具体性がないということです

 

ただ、万物に共有するということなら、内容は究極にシンプルなはずです

 

なぜなら、複雑であるほど完全に共有するのが難しくなるからです

 

哲学はシンプルなことが書かれているのです

 

ただし、世界的な視点で書かれているので、その視点を用いなければ理解するのが難しいというだけの話です

 

山の裾野から見る景色と山の頂上から見る景色

 

この2人に景色に対して共通の話題が持てるでしょうか?

 

今年読んだ哲学書にアラン・ワッツ著「タブーの書」があります。この本は途中までは難解で四苦八苦しながら読んでいたのですが、あるタイミングから一気に書かれている内容が分かり、グイグイと書かれている内容に引き込まれて行きました

 

自分がワッツが立つ視点にたどり着いたのかは分かりませんが、分からないことは分からないでいいんです

 

ただ、分かろうとする努力をすることが大切です

 

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ステージの違いというか、自分よりも遥か高みのステージにいる人たちの視点は、そこに到達しない限りは、当然ですが分からないんです

 

分かる範囲というのは、自分がいるステージと下にあるステージのみです

 

高みにあるステージの世界は分からないんですよ

 

ここに認識の違いがあり、意見の食い違いがあります

 

では、ステージの高みに行くためにはどうすればいいのか、そのためには「考える」こと

 

自分の知らない外側の世界に触れるために「行動する」ことです

 

「行動しながら考え」て「考えながら行動する」こと

 

現代は「行動する」ことに偏り過ぎていて、「考える」こと軽視しているようにも感じます

 

「行動力」は非常に大事ですが、行動するための指針となるものを「考える」ことも、同等に大切です

 

何かを決めることは数秒で出来るかもしれませんが、数秒で決めるためには常日頃から「考える」必要があります

 

考える指針が必要な方は、ぜひ池田晶子著「考える日々」をお読みください

 

この本は「考える」ということがとても分かりやすく書かれています

 

 

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